つづき

 それで、『翻訳夜話』の、すごーく共感できるところ。

柴田 そのこともぜひおうかがいしたかったんですけども、こういう翻訳論の授業をやっていると、みんなの思い込みとしては、直訳というのはだめで、いかにうまく意訳するかが翻訳の極意だ、みたいな思いがあるようなんです。でも僕が皆さんのレポートに書くコメントというのは、わりと直訳を褒めて、意訳すると凝りすぎとか、原文からずれているとかいうコメントをすることがどうも多いみたいなんですよ。
村上 正しい姿勢だと思います。
(本文p.20より)

村上 ・・・自分なりのポリシーというか、文章を書くときにプライオリティのトップにくるものが、それぞれにあるはずです。
 僕の場合はそれはリズムなんです。呼吸と言い換えてもいいけど、感じとしてはもうちょっと強いもの、つまりリズムですね。だからリズムということに関しては、僕は場合によってはテキストを僕なりにわりに自由に作りかえます。どういうことかと言うと、長い文章があれば三つに区切ったり、三つに区切られている文章があったら一つにしたりとか。ここの文章とここの文章を入れ換えたりとか。
 なぜそれをするかというと、僕はオリジナルのテキストにある文章の呼吸、リズムのようなものを、表層的にではなく、より深い自然なかたちで日本語に移し換えたいと思っているからです。・・・
(本文p.21〜22より)

 翻訳ものって、すごーく乗って読めるときと、ぜんぜん入り込めなくて結局読了できないものと両極端に私の場合分かれる。だから一般的に名作といわれている著作でも、読んでいないものが多い(まあこれは日本文学に対しても言えることだけど、その幅が海外文学の場合大きいのだ)。それはこういう理由からだったのかなあと思う。
 たとえば英語で英文和訳をするとする。私もわりと原文に忠実に直訳をしてしまうほうで、それだと文章がかくかくするということはわかっている。でも、それを私は注意されたんだよね、高校のときに。「もっと文章を読んで意味がすらっと頭に入ってくるような訳にしなさい」って。でもさ、それはあくまでも文章を組み立てる上でのテクニックであって、英文和訳とは別じゃないのかなーと思ってたのね。直訳することが何よりも大前提で、読みやすい文章にするということはそのあとのことじゃないかな、と。
 もちろん翻訳は英文和訳とは難易度も量も比べものにはならないけれど、根本は同じかなーとずうずうしく思っていたりする。意訳という枝葉末節にばかり気をとられて、本来の訳が原文とずれていたりしたら、それは訳す意味がないもの。だから何よりも直訳がベースという考え方には大賛成。
 文章のリズムについて。これはふだん日本文学を読んでいても、この人の文章は好きだなあとかちょっと肌に合わないなとか、そういう感じかたをしょっちゅうしている。それがたぶん文章のリズムなんだろうな。その明確な基準は自分でもよくわからないけど、自分のなかにもともとあるリズムとどれくらい呼応するかということなのかな。波動が似ているなと思えば好きなのかもしれないし、ちっとも似たところがなくてもいいなあと思うかもしれない。その逆もまた然りで。ほかの人がいいと言う作品を読んでも、必ずしも自分にとってはいいと思わない理由にさえなるのかもしれない。だとしたら、この人の文章を好きだと思える人がいるのは、それは思っている以上に大事なことなのかもしれない。
 まだまだ引用したいところは出てきそうなんだけど、今日のところはひとまずこれで。