語り尽くされた

 『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』を読了。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』をフィーチャーした内容だというのは書名からもわかるけれど、私は読みはじめた時点では、それほど『キャッチャー』を読むつもりはなかったのだ。まあいつか図書館で借りて読めばいいかな、というくらい。でも、この本を読んでいるうちに、猛烈に『キャッチャー』を読みたくなってしまった。『キャッチャー』を未読の読者にこう思わせるあたり、やっぱりさすがだし思い入れも強いんだろうなあと思う。
 野崎孝訳の『ライ麦畑でつかまえて』は、13歳のときに読んだ。名作だ、読んだほうがいい、と誰かに言われたからだ。でも、読んでもちっともおもしろくなかった。ホールデンはうだうだぐじぐじ考えてばっかりで、ちっとも自分を変えようとしてないじゃないか、いったいこれのどこがおもしろいんだ、ということがまったく理解できなかった。本を買ったら必ず2回以上読む私が、この本はそれ以来読んだことがない。
 でも、この『サリンジャー戦記』を読んで、やっぱり『キャッチャー』を読みたくなった。前書きで、村上春樹は「ところで、『キャッチャー』を楽しく読んでいただけましたか?」と問いかけている(p.9より)。この言葉からも、村上春樹が自信と確信を持って『キャッチャー』を訳したんだろうなあということが推測できる。作品に対する愛情と言いかえてもいい。それは本文のなかにも至るところに表れていて、しかもそれがあまりにもまっすぐな感情で好感が持てる。13歳の私には理解できなかったホールデンの行動も、この2人の対談を読む限り、わかるような気もする。もっとも、それは私が16歳のホールデンの年齢をとっくに過ぎてしまったということも理由のひとつだろうけれど。サリンジャーについては、どうやらかなりの変人で、周りを塀に囲まれた家に住んでいて、作品ももう発表していないという一般的な知識は持っていたけれど、それ以上にずいぶん屈折した人生を送ってきた人なのだなあと思う。いろんな葛藤があって、少なからずサリンジャー自身をホールデンに投影しているのだろう。ホールデンの苦悩はサリンジャー自身の苦悩でもあるのだ。今まさにこの時期にホールデンがいたとしたら、『キャッチャー』はどんな小説になるんだろう。自分で手に入れてこその『キャッチャー』なのかなあと思う。そして今の私が読んで、どう感じるのかにも、自分のことながらとても興味がある。