あれば何かが変わるのか

 最相葉月絶対音感』を読了。このあいだもちらっと書いたけれど私には絶対音感があって、それをごく当たり前のことだと思ってきた。というか、世の中の人にはみんなあるものだと思っていたので、ない人のほうが多いんだと聞いたときにはすごい衝撃だった。私がレッスンしてもらっていた先生のところには、絶対音感のある人のほうが多かったと思うし(だってみんな先生が弾いた曲を楽譜にすぐ起こせたんだから、そうだと思う。そういうレッスンもしてたけれども)、私も楽譜に起こすのはもちろん、聴いている音楽が音階で聴こえるのが普通だと思っていた。今でもそれは残っていて、歌詞はドレミの音階のかわりに歌うものなので、意味なんてぜんぜん関係ない。「この曲の詞がいいんだよね」って言われても、ぜんぜんわからないのだ。だってドレミのかわりでしかないから。私がもし「絶対音感がなくなったらどうしますか」って訊かれたら、かなり混乱すると思う。それは私の知らない世界だから。音楽をやっていく上で、絶対音感があったほうが得な場面は多いと思う。だからといって、それを身につけるために大変な努力を要する、というのはなんとなく違う気がする。たとえば1ヘルツ違っただけで気持ちが悪くなるというのでは、演奏活動をしていく上で大きな障害になるだろう。あったらあったでよけいに気をつけなければいけないものが多くなるのかもしれない。私は音楽を専門的にするのを諦めて、自分の好きなように音楽を楽しんでいるけれど、ただ楽しむのに絶対音感が必要だとは思わない。かえって本を読むときに音楽は時として邪魔になるし(シャットアウトできるようになったり、ずいぶんコントロール可能にはなったけど)、あちこちで聴こえる音がハモってないとうえー、って思ったりする。あるがままを受け入れるしかないのかな、と今は思うけれど。ずいぶん脱線した感想になったな。